宮井国夫

1955年1月、明治大学時代
(藤木高嶺撮影)

宮井 国夫(みやい くにお、1932年12月3日 - )は、日本の元ラグビー選手。「走る重戦車」の異名をもつ。

プロフィール

来歴

北海道北見北斗高等学校時代の1951年度、主将として全国高等学校ラグビーフットボール大会に出場し、準優勝を経験。

その後、明治大学へと進み、1955年度には主将を務め、また同大学在籍時代には日本代表選手にも選出された。加えて当時、同大学の陸上部が弱小であったため、100m走・10秒台の走力を見込まれて、1955年の日本学生陸上競技対校選手権大会の同種目に出場し、10.6秒の好タイムをマークして2位に入った[2]

1956年八幡製鐵に入社。同社在籍時代には、全国社会人ラグビーフットボール大会(全国社会人大会)で6回の優勝を経験。特に、宮井、土屋俊明、尾崎政雄、松岡要三らを擁した八幡バックス陣は、そっくりそのまま、当時のラグビー日本代表のバックス陣にも通じる陣容であった。また、シーズンオフには100m走の選手として活動。九州選手権優勝や、全国実業団大会準優勝等の実績を残した[3]

1964年度のシーズンをもって引退。

引退後は、全国社会人大会などで日本のトップレフリーとして活動した。

脚注

  1. ^ ようこそ先輩 - 北見北斗高校ホームページ
  2. ^ 競走部の歴史 - 明治大学体育会競走部
  3. ^ 八幡ラグビーの歴史 - 新日鐵住金八幡ラグビー部OFFICIAL SITE

エピソード

  • 上記の通り、100m走を10秒台で走破する選手であったが、決して細身の体ではなく、ラグビー選手としては最も体重が重い選手がつくポジションとされる、プロップ(PR)に近い体型であったという。
  • 宮井が八幡に加入したことにより、フランカー(FL)のポジションでありながらも、100m走では11秒フラット程度で走破する能力があった土屋俊明がセンター(CTB)へとコンバートされた。土屋の話によると、100m走で例えるならば、最初の30mぐらいのダッシュは土屋のほうが速く、残り70mで宮井がグーンと加速することから、まずは土屋がゲインラインを突破し、その上で宮井にパスをすれば、確実にトライが取れたという。

参考文献

  • 栄光のトライ(馬場信浩 著、光文社 刊)
  • 第1回 ラグビーの申し子「土屋俊明」伝説の男の素顔に迫る! - 九州ラグビーフットボール協会

関連項目

  • 山田章仁 - 同一シーズンにラグビーとアメリカンフットボールの両方でプレーをした『二足のわらじ』選手。
  • 中道貴之 - 高校時代はラグビー部に所属しながら、陸上競技に参加していた短距離選手。
日本の旗 歴代ラグビー日本代表キャップ保持者【BK:10-15篇:255名】
1930年代 (19名)
1950年代 (27名)
  • 柴垣復生
  • 青木良昭
  • 小山昭一郎
  • 大塚卓夫
  • 横岩玄平
  • 佐藤英彦
  • 松岡晴夫
  • 今村隆一
  • 渡部昭彦
  • 上坂桂造
  • 佐々木敏郎
  • 麻生純三
  • 堀博俊
  • 近藤功
  • 寺西博
  • 宮井国夫
  • 新井茂裕
  • 高岡晃一
  • 榎本力雄
  • 青井達也
  • 谷口隆三
  • 日比野弘
  • 北岡進
  • 原田輝美
  • 平島正登
  • 石井堅司
  • 松岡要三
1960年代 (11名)
1970年代 (25名)
1980年代 (28名)
1990年代 (30名)
2000年代 (56名)
2010年代 (45名)
2020年代 (14名)
  • プロップ
  • フッカー
  • FWフロントロー以外
  • スクラムハーフ
  • BK9番以外
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