秦野章

秦野 章
はたの あきら
『経済時代』1967年5月号より
生年月日 (1911-10-10) 1911年10月10日
出生地 日本の旗 神奈川県藤沢市
没年月日 (2002-11-06) 2002年11月6日(91歳没)
出身校 日本大学専門部政治科(夜間部)
前職 国家公務員(内務省・警視庁
所属政党 自由民主党(無派閥)
称号 勲一等瑞宝章(1987年)
従三位(2002年)

日本の旗 第41代 法務大臣
内閣 第1次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1983年12月27日

選挙区 神奈川県選挙区
当選回数 2回
在任期間 1974年7月8日 - 1986年7月7日
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秦野 章
はたの あきら

日本の旗 第67代 警視総監
在任期間 1967年3月7日 - 1970年7月7日
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秦野 章(はたの あきら[1]1911年明治44年〉10月10日 - 2002年平成14年〉11月6日)は、日本官僚(内務省・警察庁)、政治家。官僚としては警視総監まで上り詰め[注釈 1]、政治家としては法務大臣を務めた。

来歴

神奈川県藤沢市出身。父親の経営する製糸会社「秦野製糸」が倒産し、旧制藤沢中学校(現:藤嶺学園藤沢中学校・高等学校)を2年生で中退した[3]。製糸工場の小僧となった秦野は、様々な職を転々とした[3]。夜間部のみの学校である横浜市立横浜専修学校(戦後の横浜市立横浜商業高等学校(定時制)の前身[4][注釈 2]に入学するも昭和6年(1931年)9月に2年生で中退し[5][6]、日本大学第四商業学校(現・日本大学高等学校・中学校)の夜間部の3年生に編入して昭和8年(1933年)3月に卒業した[6]。秦野が日本大学第四商業学校に転じたのは、旧制中学校卒業資格を取るためであった[6]

日本大学第四商業学校を卒業した時点で、農林省生糸検査所の傭員(非正規雇用者)になっていた秦野は、生糸検査所の所長職や庶務部長職に就いている農林官僚の羽振りの良さを見て、自分も官僚になりたいと強く願い、高等文官試験行政科(現在の国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)に相当)を目指すと決意した[6][7]旧制大学を卒業せずに高等文官試験を受けるには、予備試験に合格するか、旧制専門学校を卒業する必要があった[7]。秦野は、高等文官試験の受験資格を得るために私立大学専門部(旧制専門学校と同等)の夜間部に進学することを決意し、昭和9年(1934年)に日本大学専門部政治科(夜間部)に入学し、昭和12年(1937年)7月に卒業した[7][8]

昭和14年(1939年)10月、秦野は高等文官試験行政科に合格した(3600人が受験して合格者は200名)[9]。秦野のような経歴の者が高等文官試験行政科に合格するのは極めて稀なことであり、新聞に「蛍雪の功報われる」という見出しで報道された[10]。秦野は高等文官試験行政科に合格した後に各官庁について調べ、学歴が劣っても出世できる可能性があるのは内務省であると判断し、内務省の入省試験を受験して合格し、昭和14年(1939年)12月に内務省に入省して和歌山県学務部社会課(福祉行政を管掌)に配属された[10][11][12]

香川県商工課長を経て兵庫県警刑事課の課長となる。生え抜きのベテラン警視が登用されるポストだが、暴力組織と結びついたヤミ市という経済問題と占領軍の軍政下の特殊な環境下でキャリア官僚の広い視野を期待された。後に内務省警保局大阪府警刑事部長、警視庁刑事部長等を経て、1967年昭和42年)、私大出身者では初の警視総監に就任。学生運動70年安保闘争が吹き荒れる激動の時代に警視庁トップとして指揮を取った。当時の部下であった佐々淳行警備部警備第一課長)は、後年、『乱世の名総監。秦野総監でなければ、あの警察戦国時代の修羅場は乗り切れなかった。決断力と責任感あふれる人』と評している。佐々は東大安田講堂警備の際に、この後に起きたあさま山荘事件で有名になった"鉄球作戦"を実行しようと秦野総監に意見具申したところ、「あれは重要文化財だぞ! 絶対にダメだ!」と却下されたという。1970年のよど号ハイジャック事件の際には「犯人を絶対に海外に出すな。離陸を阻止すべきだ」という意向を持っていたが、当時犯人はすでに福岡にいたため警視庁に管轄権がなく、犯人の外国亡命を許すことになった。また佐々によれば、当時絶頂期であった学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い、過激派テロの標的にされ、それを警戒して秦野総監にも護衛をつけたいと言ったところ「駆逐艦が駆逐艦を守るようなものだ」と言って断り、総監自身が拳銃を常時装填・常時携行するようになった。

1971年には佐藤栄作首相の強い要請で東京都知事選挙に立候補する。公約として環七を高速道路、一般道、地下鉄の3層構造にするなどといった壮大な開発計画を盛り込んだ「4兆円ビジョン」を掲げたが、当時の東京革新風潮が極めて強く、美濃部亮吉に100万票を超える大差で敗れ落選。

1974年第10回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で神奈川県選挙区から立候補し、初当選。以後当選2回。無派閥ながら田中角栄元首相に近かったことから、1982年第1次中曽根内閣法務大臣に就任した際は、元首相へのロッキード事件の第一審判決を間近に控えていたこともあって、「角栄のごり押し人事」と批判を浴びた。秦野は田中を擁護し、「嘱託尋問は違法である」など、捜査を進める検察への批判を繰り返している。また自著において法相時代を回顧し、「田中が一審で無罪判決となった場合、検察に控訴をさせないために指揮権を発動する心積もりであった」としている。政治家になる前の江本孟紀に田中の応援演説を依頼し、江本は演説を行った[13]

1986年、高齢もあって、政界から引退。その後は健康状態を見ながら「秦野章の辛口モーニング」(テレビ東京系、対談番組)などTV番組[14]にも多数出ていた。

1987年11月3日勲一等瑞宝章受章[15]

2002年平成14年)11月6日腎不全のため死去。91歳没。叙従三位

人物

  • 歯に衣着せぬべらんめえ口調で知られ、「政治家に徳目を求めるのは、八百屋をくれというのに等しい」などの発言で物議を醸した(弁明会見ではさらに墓穴を掘り、役職辞任もしばしばであった)。また「昭和元禄田舎芝居」という言葉も流行語となった。都知事選候補になった際は、自派の機関誌「東京の心」誌上で「和歌山で同和事業をやった時、差別なんてクソくらえ、そんなのがあるのなら君たちの劣等感だ。オレにはないとブッて歩いた」と発言し、部落解放同盟や日本共産党などから抗議を受けたことがある[16]
  • ラジオ番組「ミッキー安川のずばり勝負」における南丘喜八郎(ラジオ日本に勤務、現在「月刊日本」主幹)の発言によれば、走行中の車内で秦野にインタビューした時、南丘が「秦野さん、これってスピード違反なんじゃ?」と秦野に尋ねると、秦野は「バカヤロー、南丘。時には、こういうことをしなきゃ、人間いかんのだよ」と笑いながら言ったという。「ああいう気骨ある人物は、もう登場しないかも知れないですね。」と南丘はミッキー安川に語った。
  • 『文芸春秋』1983年12月号のインタビューで「…(前略)…この程度の国民なら、この程度の政治ですよ。…(後略)…」と述べている。
  • 作詞家の川内康範や作曲家の猪俣公章と親交がある。1970年頃には部下の佐々淳行から「機動隊の新しい愛唱歌が欲しい」という要望を受け、両氏に作詞作曲を依頼し、橋幸夫歌唱の「この世を花にするために/この道」として発売された[17]

著書

  • 『あなたの子孫が生きのびるために』ステーツマン社、1980年2月10日。NDLJP:12410535。 (要登録)
  • 『何が権力か。 : マスコミはリンチもする』講談社、1984年7月20日。ISBN 978-4062013765。NDLJP:12240502。 (要登録)
  • 逆境に克つ:「一日生涯」わが人生(講談社・1988年9月)ISBN 4062039419
  • 本沢二郎 編『秦野章の日本警察改革論』エール出版社〈Yell books〉、1992年12月25日。NDLJP:12658501。 (要登録)
  • 角を矯めて牛を殺すことなかれ (光文社カッパ・ブックス 1994年)
  • なんで日本はこうなった 加瀬英明と対談 (廣済堂出版 1997年)

ドラマ

  • 許せ妻たち(1990年、関西テレビ)- 特別出演・刑事関係監修

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ 警察庁長官警視総監の2つのポストは、警察官僚の頂点に位置する[2]
  2. ^ 現:横浜国立大学経営学部・経済学部の前身である官立横浜高等商業学校、現:横浜市立大学商学部の前身である横浜市立横浜商業専門学校は、いずれも旧制中学校を卒業して進学する旧制専門学校であった。旧制中学校を1年で中退した秦野が入学した「横浜市立横浜専修学校」とは無関係である。

出典

  1. ^ 秦野 1988, 著者紹介
  2. ^ 古野まほろ(元・警察官僚). “警視総監と警察庁長官、本当のトップはどっち?”. 幻冬舎. 2022年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月8日閲覧。
  3. ^ a b 秦野 1988, pp. 32–33, 第1章 山は登るもの:中学中退、小僧奉公へ
  4. ^ “横浜市内旧制中学・高校・専門学校 校名変遷(戦前創始編)”. 横浜市. 2022年5月15日閲覧。
  5. ^ 秦野 1988, pp. 51–54, 第1章 山は登るもの:「バーイ」から独立へ
  6. ^ a b c d 秦野 1988, pp. 59–63, 第1章 山は登るもの:たった一人のキャリア
  7. ^ a b c 秦野 1988, pp. 63–67, 第1章 山は登るもの:釜の中のめしに線引き
  8. ^ 秦野 1988, pp. 73–76, 第1章 山は登るもの:二人の教師の言葉
  9. ^ 秦野 1988, pp. 76–78, 第1章 山は登るもの:高文行政科合格
  10. ^ a b 秦野 1988, pp. 78–81, 第1章 山は登るもの:内務省へ
  11. ^ 秦野 1988, pp. 81–84, 第1章 山は登るもの:しばらく体を休めてこいよ
  12. ^ 秦野 1988, pp. 87–89, 第2章 普通のことをふつうにやる:おまえ、わかってしゃべってんのか!
  13. ^ 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P235-236
  14. ^ 余談だが、美空ひばりの生前から、国民栄誉賞授与を唱えていた。
  15. ^ 「秋の叙勲に4575人 女性が史上最高の379人」『読売新聞』1987年11月3日朝刊
  16. ^ 『同和問題研究資料: 和歌山県有田郡吉備町調査報告』(龍谷大学同和問題研究委員会、1979年)p.132
  17. ^ 『東大落城』(佐々淳行著、文藝春秋1993年)pp.304 - 305

参考文献

  • 小説 日本大学〈上〉(大下英治著・角川書店・1988年7月)ISBN 4048724975
  • Ⅱ 秦野章は我が家の恩人(西部邁著『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』所収、飛鳥新社、2010年、71 - 84頁)ISBN 9784864100298 - 西部が秦野の思い出について語っている。
  • 秦野章『逆境に克つ:「一日生涯」わが人生』講談社、1988年。ISBN 4-06-203941-9。 
  • 「武将」が店にやってきた―秦野章追想録(宮本照夫著・文星出版・2003年11月)ISBN 4938916142

関連項目

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日本の旗 法務大臣
第41代:1982年 - 1984年
次代
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