文藝文化

文藝文化
画像募集中
ジャンル 同人文芸雑誌
読者対象 国文学愛好者、日本浪曼派
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 日本文学の会
発行人 蓮田善明
編集長 蓮田善明
編集人 清水文雄栗山理一池田勉
雑誌名コード NCID AN00222327
刊行期間 1938年7月(第1巻1号) - 1944年8月(第7巻4号)
テンプレートを表示
ポータル 文学
ポータル 文学

文藝文化』(ぶんげいぶんか)は、昭和(戦前から戦中期)に発行された日本浪曼派系の国文学雑誌

1938年(昭和13年)7月、国文学者蓮田善明を編集兼名義人に清水文雄栗山理一池田勉の広島文理大出身者で、国文学者齋藤清衛門下の4名を同人として創刊。1944年(昭和19年)8月に終刊した。全70冊[1]

この雑誌で1941年(昭和16年)に、三島由紀夫(本名・平岡公威。学習院在学時で、清水文雄の指導を受けていた)は「花ざかりの森」でデビューした。清水によりペンネーム「三島由紀夫」の名付けられた[2]。「花ざかりの森」は昭和16年9月号から連載され、その号の編集後記に蓮田善明は、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」と記し、激賞した[3]

三島は蓮田善明から「感情教育」を受けていたと語っている。蓮田は終戦時にマレー半島ジョホールバルでピストルで上官を射殺した後、自決した。

このことは、三島の自決に大きな影響を与え、自決一週間前の古林尚との対談冒頭でも語っている。(『三島由紀夫最後の言葉』より、新潮社、新潮CDで再版)。三島による序文を収録した小高根二郎『蓮田善明とその死』でも大きく窺える(自決した1970年に筑摩書房で出版、新版・島津書房)。

この雑誌への寄稿者は他に、伊東静雄などがおり、1943年(昭和18年)7月号の表紙やカット絵は棟方志功が担当している[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 杉山欣也「文芸文化」(事典 2000, pp. 587–588)
  2. ^ a b 三島由紀夫私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271–323
  3. ^ 蓮田善明「編集後記」(文藝文化 1941年9月号)。福島鋳 2005, p. 116、群像18 1990, p. 76

参考文献

  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7』新潮社、2003年7月。ISBN 978-4106425721。 
  • 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820。 
  • 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185。 
  • 秋山駿; 江藤淳ほか『三島由紀夫――群像日本の作家18』小学館、1990年9月。ISBN 978-4095670188。 
  • 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(増補再訂)朝文社、2005年9月。ISBN 978-4886951809。  - 旧版の一つは1989年6月 ISBN 978-4886950130。初刊版は『資料総集・三島由紀夫』(新人物往来社、1975年6月)NCID BN06124544

外部リンク


  • 表示
  • 編集