天慶帝

天慶帝 陳暠
後陳朝
第3代皇帝
王朝 後陳朝
在位期間 1426年 - 1428年
姓・諱 陳暠(陳翟)
生年 不詳
没年 天慶3年1月10日
1428年1月26日
元号 天慶 : 1426年 - 1428年
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
大越史記全書/本紀巻之十 黎皇朝紀

天慶帝(てんけいてい、ベトナム語Thiên Khánh Đế / 天慶帝)は、後陳朝大越の第3代(最後)の皇帝。名は陳 暠(ちん こう、ベトナム語Trần Cảo / 陳暠)、または陳 翟(ちん てき、ベトナム語Trần Địch / 陳翟)。

生涯

大越史記全書』によると初名は胡 翁ベトナム語Hồ Ông / 胡翁)といい、丐者の子で、芸宗の甥を自称していたという[注 1]藍山蜂起を起こした黎利は、民心が未だ陳朝にあるのに鑑み、の勢力を駆逐した後の名分として陳氏の人間の擁立を考えた。宣徳元年11月(1426年12月)に陳暠は黎利によって皇帝に擁立され[2]、天慶と改元した。天慶2年8月(1427年9月)、黎利は明に使節を送って天慶帝を冊封するように求め[3]、12月17日(1428年1月3日)、天慶帝は明の宣徳帝より安南国王(中国語版)に封じられた[2][4]

天慶3年(1428年)、黎利によって殺害された。一説には麻港(現在のゲアン省)まで逃げたところを黎利の手の者に捕まり、東関城で毒薬を飲まされたとも、別の説では逃げ回った先の古弄隘で黎利の追手に殺されて遺体は叢に投げ入れられたとも、また別の説では黎利が「私は百戦して天下を得た、(陳)暠が皇帝の地位にいられるのは私のおかげである」と語ったのを聞いて恐懼し古隘に逃れたが、最終的に追ってきた黎利に殺されたともされる。天慶帝を殺害した黎利は皇帝に即位し、後黎朝を開いた[5]

脚注

注釈

  1. ^ 明に対しては芸宗三世の嫡孫を称した[1]

出典

  1. ^ 明史』巻三百二十一 列伝第二百〇九 外国二 安南
  2. ^ a b ベトナム史略』第1巻 第3編 自治の時代 第14章 軍事行動の10年
  3. ^ 藤原 1963, p. 48
  4. ^ 明実録』宣宗章皇帝実録 巻三十四
  5. ^ 『ベトナム史略』第1巻 第3編 自治の時代 第15章 黎氏

参考資料

  • 藤原利一郎「中国資料から見た東南アジアの歴史 : 元明時代の東南アジアの華僑について」『東南アジア研究』第1巻第2号、京都大学東南アジア研究センター、1963年7月31日、46-54頁。 
先代
重光帝
後陳朝の第3代皇帝
1426年 - 1428年
次代
(滅亡)
  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、君主に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:人物伝/PJ王朝/PJ人物伝)。

  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

  • 表示
  • 編集