京丹後市立峰山小学校
京丹後市立峰山小学校 | |
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北緯35度37分46.6秒 東経135度03分22.4秒 / 北緯35.629611度 東経135.056222度 / 35.629611; 135.056222座標: 北緯35度37分46.6秒 東経135度03分22.4秒 / 北緯35.629611度 東経135.056222度 / 35.629611; 135.056222 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京丹後市 |
設立年月日 | 1869年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B126210002927 |
所在地 | 〒627-0013 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
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京丹後市立峰山小学校(きょうたんごしりつ みねやましょうがっこう)は、京都府京丹後市峰山町不断1番地にある公立小学校。
沿革
画像提供依頼:移転前の峰山小学校の画像提供をお願いします。(2019年7月)
- 1869年(明治2年) - 峰山藩の藩校敬業堂を敬業館と改称[1]
- 1873年(明治6年) - 敬業館を廃して峰山吉原小学校を創立。[1]
- 1874年(明治7年) - 不断町小学校を開設。[2]
- 1879年(明治12年) - 中郡第2組峰山小学校と改称。[1]
- 1887年(明治20年) - 峰山尋常小学校と改称。組合立高等尋常小学校を置く。[1]
- 1903年(明治36年) - 組合立を廃して峰山尋常高等小学校を置く。[1]
- 1914年(大正3年) - 峰山女学校を付設。[1]
- 1927年(昭和2年)3月7日 - 北丹後地震で校舎が壊滅。教員8名死亡、園児・児童・生徒204人死亡。[1]
- 1929年(昭和4年)11月 - 現在地に新校舎落成移転。[2]
- 1934年(昭和9年) - 学校給食を開始。校歌制定。[1]
- 1941年(昭和16年) - 国民学校令により峰山国民学校に改称。[1]
- 1947年(昭和22年) - 学校教育法により峰山町立峰山小学校に改称。[1]
- 1963年(昭和38年)2月24日 - 三八豪雪の最中に起こった火災により木造校舎3棟が全焼。[2]
- 1965年(昭和40年) - 教室棟竣工。体育館竣工。[1]
- 1967年(昭和42年) - スキー場完成。[1]
- 1973年(昭和48年) - プール完成。[1]
- 1981年(昭和56年) - 特別棟が竣工。[1]
- 1998年(平成10年) - 本館の屋根改修工事が完了。[3]
- 2004年(平成16年) - 京丹後市が誕生したことにより京丹後市立峰山小学校に改称。[1]
峰山小学校本館
1927年(昭和2年)の北丹後地震では校舎がめちゃめちゃになり、教員や園児・児童・生徒に計212人の死者を出した。日本全国から集まった震災義援金や峰山町民のカンパ[2]を新校舎の建設資金に充て[3]、1929年(昭和4年)10月には鉄筋コンクリート構造の新校舎(峰山小学校本館)が完成した[4]。設計者は丹後震災記念館の設計も手掛けた一井九平であり、峰山小学校本館のほうが丹後震災記念館の竣工よりわずかに早い[4]。2階の講堂の高さは約6メートルもある[2]。
北丹後地震後にはいくつかの小学校の建築に鉄筋コンクリート造が用いられたが、峰山小学校本館はその中で唯一現存する建物である[4]。1998年(平成10年)時点では戦前に建設された北丹地域唯一の学校校舎だった[3]。文化財指定はなされていないものの、地方都市には希少な近代建築である。
出身者
- 粟倉泰弘 - 工学博士。京都大学名誉教授。[5]
通学区域が隣接している学校
- 京丹後市立しんざん小学校
- 京丹後市立いさなご小学校
- 京丹後市立網野南小学校
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 沿革史 京丹後市立峰山小学校
- ^ a b c d e 「母校今昔 71 峰山小 町を代表する建築物」『京都新聞』1997年7月25日
- ^ a b c 「戦前建築の峰山小本館校舎 屋根の改修工事進む アルミメッキ鋼板上張り」『京都新聞』1998年8月6日
- ^ a b c 新谷勝行「北丹後地震の記念碑・震災記念館と復興建築」『歴史地震』第31号、2016年、pp. 165-167
- ^ 粟倉泰弘 粟倉研究室
関連項目
外部リンク
- 京丹後市立峰山小学校
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