シュテフィ・ゲイエル

この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いゲイエル・シュテフィと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名)
シュテフィ・ゲイエル
基本情報
生誕 (1888-06-28) 1888年6月28日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダペスト
死没 (1956-12-11) 1956年12月11日(68歳没)
学歴 リスト音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリニスト
担当楽器 ヴァイオリン

シュテフィ・ゲイエル[1](Stefi Geyer, *1888年6月28日 ブダペスト - †1956年12月11日 チューリッヒ)は、ハンガリー人の女性ヴァイオリニストで音楽教育者。

経歴

1888年、ブダペスト生まれ。父ヨージェフは監察医であり、自身もヴァイオリン演奏の嗜みがあった。3歳でヴァイオリンを始めるが、初心者にしては目覚しい才能を発揮し、やがてブダペストのリスト音楽院にてイェネー・フバイに師事することとなった。神童として欧米で演奏旅行を行なう。音楽性や技巧的な能力だけでなく、その人柄や美貌によっても名を馳せ、バルトーク・ベーラオトマール・シェックは、彼女に魅了されてヴァイオリン協奏曲を献呈した。

ウィーンの弁護士エルヴィン・ユング(Erwin Jung)と結婚するが、ユングは第一次世界大戦末期にスペインかぜ伝染し死去した。1920年にスイスの作曲家ヴァルター・シュルテス(Walter Schulthess)と再婚してチューリッヒに移る。同地で演奏活動に取り組み、1934年から1953年まではチューリッヒ音楽院(現:チューリッヒ芸術大学)にて教鞭を執った。1941年には、パウル・ザッハーが監督するコレギウム・ムジクム・チューリヒに入団してそのコンサートマスターも受け持った。スイスの作曲家ヴィリー・ブルクハルト1943年に、自作のヴァイオリン協奏曲をゲイエルとザッハーに献呈している。

ゲイエルは多くの後進を育成し、クラウス・フーバーは主要な門弟の一人である。

脚注

  1. ^ ハンガリー式にはゲイエル・シュテフィ(Geyer Stefi)。

関連項目

  • ヴァイオリン協奏曲第1番 (バルトーク)
  • 2つの肖像
    ゲイエルは前者をバルトークから献呈されたが、生前は自筆譜のまま秘匿し、公表しなかった。その後バルトークは、この協奏曲の第1楽章を改変して後者に加え、管弦楽曲として発表した。前者の遺稿はゲイエルの死後にザッハーに遺贈され、ザッハーの指揮とハンスハインツ・シュネーベルガーの独奏によって初演された。
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